聖書のみことば
2022年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月1日主日礼拝音声

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2022年5月第1主日礼拝 5月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第7章31〜37節

<31節>それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。<32節>人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。<33節>そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。<34節>そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。<35節>すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。<36節>イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。<37節>そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 ただいま、マルコによる福音書7章31節から37節までをご一緒にお聞きしました。31節32節に「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」とあります。
 ここに出てくるティルスやシドンという地名は、ユダヤの国から見ると北西方向にあるフェニキア人の町々の名で、地中海に面している港町です。デカポリス地方というのはガリラヤ湖の東側に当たる土地で、もともと10の町があったことから、デカ(ギリシャ語で数字の10)ポリス(都市国家)と呼ばれました。デカポリスもユダヤの国ではなく、異邦人たちが暮らしている領域にあるのです。ティルスとシドンはユダヤから見ると北西方向の外国、デカポリス地方は反対にユダヤの東の方にある外国ですから、地図上でこれらの地名を結んで主イエスが歩んで行かれた道を辿ろうとすると、大変な回り道をした末にガリラヤ湖にやって来たということになります。普通に考えて、「ガリラヤ湖に行くのに、こんな遠回りをするはずがない」と考える研究者はかなりいます。しかしその一方で、「主イエスの旅行の目的は、弟子たちと旅をしながら神さまの事柄を教え訓練することだったのだから、その時間を得るためにわざわざ遠回りをなさったに違いない」と考える人もいます。どちらが正しいのか判断することは難しいのですが、しかしいずれにしても、最終的に主イエスはガリラヤ湖の東側の岸辺まで来られるわけで、つまり外国を大回りした末に、久々にユダヤ人の住む領域に戻って来られたということになります。

 すると、主イエスが以前ガリラヤにおられた時もそうでしたが、目ざとく主イエスを見つけた人々が「具合の悪い人を主イエスのもとに連れて来る」ということが起こりました。今日の箇所では、「耳が聞こえず舌の回らない人」が主イエスのもとに連れて来られています。「耳が聞こえず舌の回らない人」、この人は病気や怪我なのではなく、今日風に言えば聴覚障害を持っていたということだろうと思います。おそらく生まれつき音のない世界に暮らしてきた人で、それは障害ですから病気のように治るものではなく、ずっと抱えて生きていくのです。しかしそういう障害者であっても、「主イエスのもとに連れて行きさえすれば何とかなるだろう」と期待する人々がいたようで、その人々は家族か、あるいは同じ地域に暮らしていて心を砕いて世話をしていた人だったのか記されておらず分かりませんが、ともかく彼らは、この障害を持っている人に対して良いことをしてあげるつもりで、主イエスのもとに連れて来ました。そして、「この人の上に手を置いてくださるように」と願いました。
 もしかすると彼らは、主イエスがあちらこちらで具合の悪い人の上に手を置いて癒されたという噂を聞きつけていたのかもしれません。

 ところで、主イエスのなさる癒しは、決して魔法や魔術ではありません。人々を驚かせて我を忘れさせ、その隙に信仰者となるように勧誘するという手口でもありません。主イエスの癒しは当時の人々の間によく見られた魔術まがいの手口と全く違うのです。あるいは、今日の医師のようなことをしたのかもしれないと思う人もいますが、そうでもありません。
 主イエスの癒しの業は、主御自身が人々に語って聞かせていた福音に関わること、福音と繋がることでした。主イエスは出会う人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と教えておられましたが、主イエスがなさる癒しの業はまさに、「神の国、神の恵みの御支配が来ていることのしるし」として、そこに起きた出来事です。
 ですからその意味で、主イエスの癒しは、「主イエスの言葉を信じ、神に信頼する信仰の有る無し」ということと非常に深く関わりがあります。
 かつて、主イエスが生まれ故郷のナザレに行かれた時に、村人たちは主イエスのことを全て分かっているつもりになってしまい、そのために主イエスが神と自分たちの仲立ちになっておられるということを考えませんでした。それで主イエスは、ナザレではほとんど癒しを行えませんでした。マルコによる福音書6章5節に「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と書いてあるために、「主イエスにも出来ないことがあるのか」と言って、非常にショッキングな言葉だと言われる場合があります。
 けれども、それは本当にそうだったのだろうと思います。主イエスはナザレの人たちに腹を立てて癒さなかったのではありません。主イエスがもたらす癒しというのは、「主イエスを通して注がれている神さまの愛に気づかされ、慰めと勇気と力を与えられて、困難な状況のもとにあってもそこをくぐり抜け、さらに先へと進んで行くようになる」ということであるために、その大本にある信仰が全く無ければ、そういう場面では、癒しの出来事は起こりにくいものなのです。ナザレの人たちは、「イエスのことなら幼い頃からよく知っている。イエスのことを分かっている」と思い込んでいて、主イエスの言葉に注意して耳を傾けたり、また主イエスによって癒されたいと思わなかったために、主イエスは癒しが行えなかったのでした。

 そういう過去のことを思い返しながら今日の箇所を聴いてみますと、主イエスの前に連れて来られた人については、主イエスがこの人を癒すという上で手強い一つの壁があると言わざるを得ません。それは、この人が抱えていた障害からくる手強さです。この人は耳が聞こえず言葉を聞いたことがない、言葉を聞いたことがないので喋ることができないわけですが、つまりこれは言語によるコミュニケーションが上手く取れないということです。言葉が全く聞こえない相手に、いったいどうやって神の慈しみを伝えることができるでしょうか。
 耳が聞こえず喋れない人であっても、状況とすれば神の慈しみと憐れみのもとに置かれていることは確かです。主イエスが十字架にお架かりになったのは、耳の聞こえる人たちだけのためではありません。耳が聞こえず、従って孤独な境遇の中にずっと生きている人たちのためにも、主イエスは十字架に架かり復活しておられます。ですから、耳が不自由だというそれだけの理由で、人間が恵みの外に置かれるわけではないのです。主イエスは耳の不自由な人たちであっても、耳の聞こえる人たちと同様に、救われることを真剣に考え行動してくださいます。主イエスの前に連れて来られた耳と口の不自由な人も、主イエスの救いの業に与って慰められ、力を与えられ歩んでいくようにと、主イエスの側では受け止めてくださっているに違いないのです。
 ただ問題なのは、そのことをどうやってこの人が知ることができるかということです。どうすれば神の慈しみを理解できるか、それが問題です。他の多くの人の場合には、神の慈しみは言葉で話して聞かせることによって受け止められるようになるのです。ところがこの人の場合には、言葉が語りかけられ、それを聞くというところに障害があるわけですから、どのようにしてこの人に、「神の慈しみと憐れみ」を、そしてまた「神の愛が注がれていること」を理解してもらうのでしょうか。
 けれども、この人を連れてきた人々は問題を深刻には考えていなかったようです。主イエスにはいくらでも人を癒すことのできる不思議な力がみなぎっていると思っていて、主イエスの前に連れて行きさえすれば、たちどころに問題は解決すると考えていたかのようです。しかし実際には、そんなに簡単ではありません。言葉によるコミュニケーションが阻害されている、そのように思える目の前の人物に対して、主イエスはどんな行動を取られたのでしょうか。

 主イエスはこの時、三つのことをなさったと言われています。主イエスはまず、この人だけを群衆の中から連れ出し主イエスと一対一の間柄に置かれました。指をその人の両耳に差し入れ、それから唾をつけてその人の舌に触れられました。そして、天を仰いで深く息をつき、「癒されなさい」という意味の「エッファタ」と言われました。33節34節にそのことが語られています。
 主イエスがここでなさった謎めいた行動はいったい何でしょうか。これは耳の不自由な人が聞こえるようになるための秘密の力なのでしょうか。「エッファタ」というのは呪文でしょうか。そうではありません。主イエスはこの人を群衆の中から連れ出し、この人と差し向かいになることで、この人に対して主イエス御自身が関わろうとしていることに気づいてもらおうとされたのでした。

 聖書に出てくるこの人の場合とは少し違うのですが、私は以前、関わっていた教会の幼稚園で、ほとんど話を聞くことができず、従って喋らないというお子さんと関わりを持ったことがあります。この子の場合には、機能としての耳は正常でした。ところがこの子は、両親が極端に無口な家庭に生まれたのです。一日中ほとんど何の言葉がけもされないままに3歳になってしまいました。赤ん坊というのは言葉がけに敏感な時期があり、その時期に親が話しかければ、子供は言葉の正確な意味を理解できなくても、とにかく自分が誰かから話しかけられる存在なのだということを知り、そして語りかけられる言葉に耳をそばだて、やがて自分も真似して喋れるようになっていきます。ところがその子の場合には、親の言葉がけが一切無いままに、その時期が通り過ぎてしまいました。するととても不思議なことが起こりました。その子は幼稚園に来て大勢の子供や大人が会話をしている中に生活するのですが、たくさんの言葉がひっきりなしに飛び交っているのに、その言葉や会話に興味を示さないのです。周囲の会話をまるで無意味な騒音であるかのように聞き流しながら、その子は園の中で一人きり、自分だけの生活をしようとしました。耳に聞くことができる機能があっても、その子自身は話しかけられたと全く思わずに過ごしていました。
 幼稚園バスに乗って登園して来るその子に、私が「おはよう」と声をかけても、全く自分に対する挨拶と気がつかないで脇を通り過ぎて行きます。この子をどのように援助するか、先生方と話し合いました。そして私も先生方も皆が、その子の前に立ち、次々とその子の顔を見て挨拶するところから始めました。横合いから挨拶しても、この子の場合には全く伝わりませんから、次々に、その子が歩いて行く方向の正面に回り、そして顔を見ながら「おはよう」と声をかけるようにしました。それで1年ぐらいして、ようやくその子が辿々しくも「おはよう」と返事をしてくれるようになりました。
 この経験を思い出しますと、主イエスがここで「耳の不自由なその人だけを連れ出して、一対一になられた」ということも、これによく似ていると思いました。

 耳の不自由な人というのは、周りの人からは想像ができないほど、孤独な在り方の中に置かれているように思います。主イエスは何よりもこの人と一対一になることで、御自身がこの人を真剣に受け止めているということを分からせようとなさっています。そしてその上で主イエスは、この人の耳と舌に刺激をお与えになりました。この人の思いを、耳と口に向けさせるためです。もちろん、そのように刺激をすれば、ひとりでに耳が聞こえるようになると決まっているわけではありません。けれども主イエスは、聞くことができず喋りもしないこの人の不自由さと痛みを御自身が受け止めようとなさるのです。言葉で話を通じさせることができないのですから、この人の正面に立って一対一になり、そして耳と舌を刺激しながら、天を仰いで深く息を吐きます。このため息は、これは小手先では決して癒せないことを知っている主イエスのため息です。何か良い方法があって、これをやりさえすればこの人が良い方向に向かっていく、そういうことが見えない、人間にはどうすることもできないということが分かりながら、しかし神に「なんとか、この人とわたしの間柄に力を与えてくださるように。聞くことができないこの人の耳が開かれ、そして話すことができますように」と真剣に祈り願っている、主イエスはそういうため息をついておられるのです。まじないをかけているのではありません。あるいは患部に目を注いでいるのでもありません。「この種の癒しは、ただ神によってしか起こらない」ということをご存知で、切にこの人の癒しを神に願ってくださった、そういう主イエスがこの人の前にいました。

 すると大変不思議なことが起こったと言われています。精一杯に祈りながら主イエスが「エッファタ、開け」とおっしゃると、聞こえなかった人の耳が開かれ聞き取ることができるようになりました。そして聞くことができるようになったこの人は、やがてはっきりと話すこともできるようになったのだと言われています。
 周囲の人たちには、とても不思議なことが起こったように感じられたことでしょう。主イエスが口止めをすればするほど噂は広がって、「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、話せなかった人を話せるようにする、不思議な治療する人物」として、主イエスの名はさらに広まっていくことになりました。

 しかし主イエスがここでなさったことは、大方の人が思ったような、魔術のような治療ではありません。言葉を交わすことが出来ず、そのため誠に孤独な状況の中に置かれていた人に、主イエスは十字架を負う方として、この人の不自由さ一切を引き受けようとして出会ってくださいました。この人の深い孤独を御自身に受け止められた主イエスは、天を仰いでため息をつき、神からの力がこの人の上に及ぶように願って、「開かれなさい。エッファタ」と言われました。
 主イエスは出会う人々に、「時は満ち、神の国は近づいた」と教えられました。今、目の前にいる人には、言葉の理屈としてそれが伝わるはずもなく教え込むこともできず、途方に暮れてため息をつかざるを得ないようなところがあったのですが、それでも主イエスは誠実にこの人の前に立って、神による救いを祈り求めてくださいました。

 この人が癒されたのは、耳と口が治ったということではないと思います。そう思った人は大勢いたことでしょう。けれども実際には、この人は、「主イエスとの出会いを通して神さまからの力をいただいた」のです。神の力というのは、人間の思いをはるかに超えて働きます。耳の聞こえなかったこの人は、自分も他の人と同じように聞きたいという希望は、そもそも持っていなかったのではないかと思います。耳が聞こえるようになりたいというのは、僅かでも聞こえる人が持つ願いでしょう。そういう願いが一切無かったと思えば、この人にとっては、耳が聞こえ喋れるようになったということは、嬉しいとか喜びであるというよりは、最初は本当に驚きであり不思議なことだったに違いありません。
 しかし、そういう不思議な経験を通してこの人は、「わたしは神さまに力をいただいたのだ。神さまがわたしの思いを遥かに超えるような新しい生活の中に、わたしを置いてくださったのだ」ということを知ったのだと思います。

 今日ここに集められている私たちは、今日の箇所に出て来る人のように、耳が聞こえないわけではありません。耳が聞こえるので、こうして礼拝をし、御言葉に耳を傾けます。しかし実は、ある意味で私たちは、以前は耳が聞こえずに過ごしていたような時期があったに違いないのです。それはどういうことかというと、「主イエスによって神さまの慈しみがあなたの上にも注がれている。神が真剣にあなたが生きることを望んでくださっている。そしてそのために全てを配慮してくださり支えようとしてくださっている。あなたはそのことを信じて生きなさい」という御言葉が自分に語りかけられているとは知らずに過ごしていた、あるいはそういう言葉を語りかけられても、それが自分についての言葉ではないと思って過ごしていた、そういう時期が私たちにもあったに違いないということです。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主イエスは人々に語りかけられました。そしてこの語りかけは、2000年前にユダヤで主イエスに出会った人たちだけではなくて、聖書を通して、今、私たちにも語りかけられています。私たちは、そういう主イエスの語りかけに対して、果たして耳が開かれているでしょうか。聖書の中に書いてある言葉、それは音としては聞こえるし、お話としての意味は分かるけれども、本当にこれが自分に語りかけられている言葉であるとは、もしかすると私たちは、気が付かずに過ぎてしまうことがあるかもしれないと思います。
 主イエスが私たちに、「あなたは神の慈しみのもとに置かれている。神の国が今ここに来ている。あなたはその中で生きるようになりなさい。信じて生きる者になりなさい」と語りかけてくださっている、そのことにお応えして、私たちは率直に喜んで生きていけるでしょうか。私たちに主イエスが語ってくださるのは、口先だけのことではありません。主イエスは私たち一人ひとりの人生を御自身の側に受け止めてくださって、十字架に架かってくださる方として、私たちに語ってくださっているのです。

 私たちを慈しんでくださり、そして御自身が十字架に架かることを承知の上で、私たちとの交わりを持って、主イエスは語りかけてくださいます。私たちの耳と心がどんなに頑なで鈍いとしても、主イエスは天を仰いでため息をつきながら、繰り返し私たちに言葉をかけてくださるのです。
 「エッファタ、開かれなさい。そしてどうかあなたも神さまの慈しみを知り、それを信じて生きる者となりなさい」、主イエスがそのように呼びかけてくださる言葉を聞き取り、そして「わたしは主イエスによって神さまの慈しみのもとに入れられている者です」と、はっきりと言い表す者となるように、私たちは招かれています。
 そしてそこに、私たち一人ひとりの本当の希望もあることを思います。

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